郷さくら美術館で開催中の「青・蒼・碧」展を見てきました。その際に小説の書き方についてメッセージを受け取ったので、シェアします。
私は小説を書く際、異世界をチャネリングするような気持ちで臨んでいます。
そのため、すでにある物語をいかに見聞きして、言葉にするかということに苦心していましたが、以下のメッセージで少し気が楽になりました。
作者が楽しんで書くものが一番いい
不思議な生き物が暮らし、変わったお店が並ぶ『魚棚駅前商店街』という絵がありました。私はこれを楽しんで見ているうちに、元気と気づきをもらいました。
作者の楽しんだものが結果的に写実になっている。
だから間違えまいとよくよく目を凝らさなくてもいい。そうしたい時だけよく見ればいい。
作品というのは異世界とこの世界の重なる部分にある。だから登場人物のものとも言えるが作者のものでもある。
作品がある方向へ動こうとしたらそれは作品の意思で、何にも遠慮せずその動きを興味深く見守ればいい。
私は取材対象である登場人物や異世界、物語そのものに遠慮しすぎていました。物語をできるだけ正確に写し取ろうと、写生や速記のようなスタンスで情景を思い浮かべたり、キャラクターの造形をメモしていました。
ですが、「楽しんで空想するのが一番であり、多少自分で作ってしまってもいいのだ。むしろ、その結果あるべき形になることもあるのだろうな」と思いました。
物語の正確さにこだわらなくていい
作者(受信者)のレンズで屈折することを込みで完全・完成だから。
物語は、曲げちゃっていい。
独自の色に調合しちゃっていい。
対話をもとに自分の采配でやってしまっていい。
ある種の虚実の楽しさがあるから、現実をそのまま写しとろうとしなくていい。
作者に任せられている。
あなたが書くのに合うものを任せられてるから、安心してのびのびと書いていい。
そんなことを感じました。
私たちは絵を見る時、描かれているものが日常の何気ない風景であっても美しいと感じます。
色使い、光の加減、絵の雰囲気、構図、筆致。それらは作者の個性であり、現実の物・現実の風景にはないものです。作者を通して私たちは美を再発見できるのです。
作品を受け取る人には、
- 作者のレンズを通って美しく屈折したものを楽しむ
- その作者ならではの感性を楽しむ
という特性がありますから、書く立場になる時は、物語が自分を通って自分の色を帯びるのを気にしなくていいんですね。
この記事が何かの参考になれば幸いです。